ブラム・ストーカー

 『吸血鬼ドラキュラ』の著者ブラム・ストーカーは1847年11月8日、当時イギリス領だったアイルランドの首都ダブリンにうまれた。両親ともにアイルランド政庁の公務員で、7人きょうだいの3番目であった。幼い頃はベッドからおりることも出来ない虚弱体質であったが、11歳頃から自発的に身体を鍛えだし、16歳でダブリン大学のトリニティ・カレッジに入学する頃にはフットボールや競歩のクラブに名を連ねるほどになっていた。

 このカレッジ時代から彼は観劇に熱中しはじめ、新聞に劇評を投稿したりしているうちに名優ヘンリー・アーヴィングの知遇を得た。大学卒業後は政庁に就職したが、新聞の演劇評の執筆も続け、雑誌に小説を書いたりして、30歳の時にアーヴィング劇団の秘書に転職した。高名なシェークスピア俳優として後にナイトの称号まで賜ったアーヴィングの身近に接したことは大いにブラムの執筆意欲を大いに刺激したらしく、多忙の合間に何作かの小説を出版した。怪奇物には子供の頃から興味を持っており、神秘学や黒魔術のサークルにも出入りしていたという。

 だが、そこから代表作『吸血鬼ドラキュラ』執筆に至った直接のきっかけは、43歳の時に、アーヴィング卿の家でアルミニウス・ヴァンベリなる人物に出会ったことである。ヴァンベリはハンガリーのブダペスト大学の東洋言語学教授で、16ヶ国語を話し、20ヶ国語が読めるという大学者であった。シェークスピア劇を通じて幽霊話や伝説に興味を持っていたアーヴィング卿が博学のヴァンベリを招いて歓談したという訳なのだが、ここでブラムは教授の語るトランシルヴァニアの吸血鬼伝説に大いにそそられた。

 「ドラキュラ伯爵が棺の中で蠢きはじめたのは、この時である」と後に語ったブラムは精力的に東欧関係の文献を漁りだし、保養先の図書館で見つけた歴史書『ワラキア公国とモルダヴィア公国の物語』で「串刺し公」ヴラド・ツェペシュに邂逅した。この人物がいわゆるドラキュラ公であり、ブラムの新しい小説の主人公がここに決った訳だが、その舞台はワラキア・モルダヴィアではなくトランシルヴァニアを選定した。先のヴァンベリ教授との歓談以来ブラムはこの「ヨーロッパの秘境」に強い興味を抱いており、『ロスト・ワールド』や『ソロモン王の秘宝』といった秘境探険物が流行っていた当時の風潮にマッチするとも考えたのである。

 その後ブラムは劇団勤めを続けつつ大英博物館に通ってトランシルヴァニア関連の資料を収集し、約1年半をかけて1897年に『吸血鬼ドラキュラ』を上梓した。褐色の表紙の小型ハードカヴァー本で、物語のヒントをくれた碩学ヴァンベリ教授も、吸血鬼ハンター「ヴァン・ヘルシング教授」に名をかえて登場しているが、その風貌はアーヴィング卿に似ているといわれ、作中のヴァン・ヘルシングは「わしのブダペスト大学の友人アルミニウス(・ヴァンベリ)教授にノノ」と語っている。

 前評判はそれほど高いものではなかったが、アーヴィング卿監督の演劇版をタイアップで公開したこと等からかなりのベストセラーとなった。今現在この小説を読んでみても、そんな物凄く出来がいいという訳ではない4 が、後述する芝居や映画のヒットとあいまって、現在ではこの手の怪奇小節の中で古典の地位を占めるとされている。

 著者ブラム・ストーカーはこの後も何本かの小説を発表しつつ1912年に64歳で亡くなったが、『ドラキュラ』があまりに有名すぎるためか他の作品はほぼ完全に忘れ去られてしまっている。しかしむしろ『ドラキュラ』自体、芝居や映画がなければこれほど有名になったかどうか疑問とさえいえるのだが。


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