吸血鬼小説の系譜

 そもそも「吸血鬼」を題材とする小説の類はブラム・ストカーの発明品ではない。イギリス・フランス・ドイツといった、本来吸血鬼伝説と縁のない国々註1にかような話が流入してきたのは18世紀初頭のことで、当時東欧のかなりの部分を支配していたオーストリアの辺境地帯で頻発していた吸血鬼騒ぎが世間の関心を呼んだのである。これには歴史的な背景があって、吸血鬼伝説は主にスラヴ系諸民族に一般的なものなのだか、ちょうどこの時代に、それまでオスマン・トルコ帝国の支配下に置かれていた(スラヴ系の)トランシルヴァニアがオーストリア帝国領に組み込まれ、現地に乗り込んだオーストリアの役人や医師が現地の迷信に注目したという訳なのである。

 註1 中世までは西欧諸国にも吸血鬼騒ぎが多くみられたが、魔女狩りや異端審問の中で消滅していった。対して東欧の東方正教会ではかような異教的迷信に寛大であった。

 そんな具合で18世紀中頃にはオッセンフェルダーやビュルガーやゲーテといった文学者が吸血鬼を創作にとりあげ、イギリスでは1810年にジョン・スタッグが『吸血鬼』を著した。イギリスの高名な詩人バイロン卿もまた1813年に吸血鬼詩『異教徒』を発表していたが、これらはみな詩であって、吸血鬼を主人公とする小説という形で発表されたのはジョン・ポリドリの『吸血鬼』を嚆矢とする註2

 註2 それ以前の小説にも全く登場しなかった訳ではないが、大きな扱いではなかったようである。

 ジョン・ポリドリは本職は医師であり、バイロン卿の主治医をつとめていた。1816年春、というからナポレオン戦争が完全に終結した直後であるが、ヨーロッパ(大陸)旅行に出かけた彼等は、スイスのレマン湖のほとりディオダティ館に腰を落ち着けることにした。

 ところがそこに、以前バイロン卿の愛人だったクレア・クレアモントという女性がおしかけてきた。バイロン卿にとってクレアは「過去の女」なのでどうでもよかったが、しかしクレアの連れの2人、異母姉メアリ・ゴドウィンとその愛人パーシー・シェリーには興味を持った。

 この年の夏は雨が多く、ディオダティ館につどう5人は、うさばらしにドイツの怪談を読んでいたが、6月15日の嵐の夜、バイロン卿の提案で各自が幽霊話を書くという話がまとまった。

 といってもクレアは参加せず、パーシーは書き上げられず、後にパーシーと正式に結婚して「メアリ・シェリー」になったメアリが名著『フランケンシュタイン』を完成させるのだが……。ポリドリは最初は創作途中で放り出してしまった。

 その数ヵ月後、ポリドリはバイロン卿と喧嘩別れしてしまったが、そのことが中絶していたポリドリの執筆意欲を再燃させ、バイロン卿を吸血鬼「ルスヴン卿」に仕立てた短編小説「吸血鬼」を雑誌『ニュー・マンスリー・マガジン』に発表するに至った(1819年)。話の舞台はイギリスとギリシアである註3。この小説は最初はバイロンの筆によるものと勘違いされ、その虚名もあってか中々のヒットをおさめた。『フランケンシュタイン』の人造人間とポリドリの吸血鬼が、同じきっかけのもとに生まれたという有名なエピソード註4だが、現在までその名を残しているのは圧倒的に『フランケンシュタイン』の方であり、ポリドリの『吸血鬼』を読むのは一部の怪奇マニアだけになっている。

 註3 吸血鬼ルスヴン卿は、作中でギリシア方面に旅行していて山賊に殺される(すぐに復活)という描写がある。ルスヴン卿のモデルになったバイロン卿が、数年後に勃発したギリシア独立戦争に義勇兵として参加して客死するというのが偶然にしては出来すぎた話と思わないでもない。

 註4 ポリドリ『吸血鬼』は日本では昭和7年に佐藤春夫によって翻訳され、このエピソードも解説で紹介されている。

 しかしながら彼の「ルスヴン卿」は、イギリスの怪奇小説を考える上で、なくてはならない存在となった。最も早く反応したのはフランスの演劇界で、シャルル・ノディエなる人物がポリドリの原作を脚色して舞台に移した『吸血鬼』が、原作発表のわずか1年後に封切られて大当たりをとり、その2ヵ月後にはロンドンでも同じ劇をさらにいじって英語に訳した『吸血鬼、あるいは島の花嫁』が連日満員の大ヒットとなった。以後数十年、吸血鬼に題材をとった芝居は数知れず、オペラにまで進出してドイツやベルギーでも上演されたが、なかでも1828年にライプツィヒで初演されたアルシュナー作曲の『吸血鬼』はワーグナーの『さまよえるオランダ人』に影響を与えたことで知られている。ちなみにこの『吸血鬼』はポリドリの原作のフランス演劇版をドイツ語に訳してさらに脚色したもので、その傍題には「バイロン原作による」と書かれていた。話が前後するが、ポリドリの原作をフランス語劇に仕立てたシャルル・ノディエは、ナポレオン時代にフランス領に編入されていたイリリア属州(現在のスロヴェニアとクロアチアの一部)に官吏として赴任したことがあり、現地の吸血鬼伝説にも直接触れていた。イリリアといえば、(どんどん話がズレて申し訳ないが)これもフランスの劇作家プロスペル・メリメがイリリア詩人の作品を集めたと称する偽書『ラ・グズラ』を発表して学者のほとんどを騙してしまうという事件があったが、その中の吸血鬼詩はプーシキンによってロシア語に翻訳され、A・K・トルストイ(『戦争と平和』のトルストイとは別人です。念のため。)の『吸血鬼の家族』(1847年)に影響を与えたとも言われている。この小説はフランス語で書かれて主人公もフランス人、舞台はセルビアである。

 話を戻す。詩・劇・オペラときたが、小説は少し遅れて1836年、フランスの作家テオフィル・ゴーティエの『死女の恋』が出版された。これも結構好評で、娼婦吸血鬼を主人公にする当作を翻訳してイギリスに紹介したのはかの有名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)である。

 かような流れの上に立ち、1848年のイギリスで長篇小説『吸血鬼ヴァーニー』が出版された。この作品は868ページという大作だが、著者は明らかでなく、『ペニー・ドレットフル』なる三流週刊誌に複数の著者によって連載されていたもので、主人公ヴァーニー卿の描写にはルスヴン卿からの借用が多いと言われている。

 この作品は売れたことは間違いないが完全な読み捨ての消耗品で、現在ではほとんど入手不可能となっており、そのかぎりで「幻の傑作」といわれるが、読書界での評価は当初から極めて低く、「ルスヴン卿」と同じく現在では吸血鬼小説の系譜の中で語られるだけの存在となっている。イギリスの吸血鬼小説の中で、まともに読む(読むにたえる)ことが出来る作品は72年にレ・ファニュが発表した中編『吸血鬼カーミラ』が最初と思われる。

 レ・ファニュはアイルランドの作家で、ブラム・ストーカーの通ったカレッジの先輩でもある。同性愛的な嗜好を持つ女吸血鬼が登場する『カーミラ』は発表当時アイルランド政庁につとめていたブラムにも強い衝撃を与え、吸血鬼小説執筆の大きな動機となっている。女吸血鬼カーミラの行動はなかなかにエロティックな香りを漂わせているが、結局は善によって滅ぼされるという結末を迎えることによって発表当時のイギリスの厳しい倫理的規制(検閲)をうまくパスしている(ジャン・マリニー著『吸血鬼伝説』)。

 ちなみにアイルランドには「赤い吸血女」なる伝説が存在し、これは美しい女性の姿をとって、男を襲っては血を吸う恐ろしい怪物だったという。女吸血鬼は『吸血鬼ドラキュラ』にも登場するが、これは故国アイルランドの伝説や同郷の先輩レ・ファニュのアイデアを受け継ぐものである。

 それにしても、『吸血鬼ドラキュラ』が東欧の吸血鬼伝説に題材をとりながらも間違いなくイギリス怪奇小説の上に立っていると実感できるのは、ルスヴン卿、ヴァーニー卿、カーミラに続き、ドラキュラもまた名門の出身とされている点である。東欧の伝説に登場する吸血鬼はもっと庶民的(?)なもので、間違っても「黒マントの長身で上品な紳士」などではないのである。この点、前述したA・K・トルストイの『吸血鬼の家族』に登場する吸血鬼は田舎の庶民であり、吸血鬼は自分の近親の者の血を好んで吸い、吸血鬼に血を吸われた者も吸血鬼になる等、実際のスラブの吸血鬼伝説に忠実な性格を持っている。『吸血鬼カーミラ』には、血を吸われた者が吸血鬼になるという記述はない。

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